2018年4月1日日曜日

イースター礼拝 ヨハネの黙示録7章9節~17節「涙をぬぐい取って下さる神」


およそ2000年前の春4月。日曜日の朝、ユダヤの都エルサレム近くの墓を破り、イエス・キリストは復活されました。そして、多くの弟子たちが復活の主の姿を目撃し、神の子、救い主であると確信したことにより、キリスト教会の歩みが始まったのです。

 それ以来、キリスト教会はイエス様の復活を記念して、日曜日に礼拝をささげるようになりました。イースターには、特別にイエス様の復活をお祝いします。復活によって、イエス様が罪と死に勝利されたから、イエス様を信じる者たちも必ずや復活することを信じているからです。

それでは、イエス様を信じる者が復活の後、生活することになる天国とは、どの様な場所なのでしょうか。今日は、それを聖書最後の書黙示録から見てみたいと思います。

黙示録は紀元1世紀後半、イエス様の弟子ヨハネが書いたものです。時にヨハネは、地中海に浮かぶ島パトモスにいました。その頃、勢力を世界に拡大するローマ帝国は、皇帝を神として礼拝するよう人々に強いることで、国をまとめようと考えましたが、キリスト教会はこれに抵抗します。イエス・キリストのみを神とし、皇帝礼拝には従わなかったのです。

そのために教会は迫害され、ヨハネもパトモス島に追放されたと言われます。この世界には多くの神々が存在し、自分たちの町や生活を守っていると信じるローマの人々にとって、十字架につけられたイエス・キリストのみを神とし救い主と仰ぐキリスト教徒は、不思議な存在だったようです。私たちの信仰の先輩は、この時代無神論者と批判され、しばしば迫害の対象とされ、殉教する者も現れました。

その様な苦しみの中にある教会のために、復活したイエス様が、様々な幻を通してヨハネに天国の様子を語る。これが黙示録の主な内容の一つでした。黙示録には特有の表現があり、少し難しさを感じますが、私たち今日の個所にも、来るべき天国の様子を確認したいと思うのです。まず見てみたいのは、天国で私たちはどのような者に変えられるのか、です。

 

7:914「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、言った。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」 長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか」と言った。そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」

 

ヨハネが見せられたのは、世界中のクリスチャンが一つとなり、父なる神と小羊イエス・キリストを賛美し、礼拝をささげている様子です。誰にも数えきれないほどの大勢の群衆。歴史始まって以来すべてのクリスチャンが集められるのですから、その賛美の力強さは、どれ程のものであったでしょう。事実、この大賛美に心動かされたのか。み使いたちも、賛美をもって応答しています。世界中から集まったすべての時代の神の民、プラスみ使いの合同賛美。大聖歌隊。その歌声は文字通り天地を震わせたことでしょう。

今この世界には国境が引かれ、国と国を隔てています。国と国との対立も絶えません。目には見えない溝が、民族と民族の間に横たわっています。しかし、天国では、対立は止み、争いは絶え、溝は埋められます。国と国とが意地の張り合いをしてきた国境線も、きれい、さっぱり消えていることでしょう。

天国では世界中の民族が一つ神の民となる。肌の色が違っても、言葉や文化が異なっても、小羊イエス・キリストに従う神の家族として共に歩み、共に生きる。私たちも、やがてこの大群衆、大家族のひとりであることを喜び味わえる日が来る。本当に待ち遠しいと感じます。

また、人々が身に着けているのは白い衣でした。これについて、長老のひとりがヨハネに尋ねています。「この人たちは、誰ですか。どこから来たのですか。」恐らく、余りにも多くの兄弟姉妹と、天地を揺るがす賛美に圧倒され、ボーとしていたヨハネに、眩いばかりの白い衣を、よく見て欲しかったのでしょう。「あなたこそご存じのはず」と応えるヨハネに、長老の一人は「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。あなたの仲間、兄弟ですよ。」と告げたのです。

結婚式で花嫁が着るドレスは白、純白が基本です。白は昔から、純潔、清楚、きよさの象徴でした。神様によって義と認められ、きよめられたことのシンボル、純白が天国の民のマークなのです。

ヨハネの時代、迫害に苦しむクリスチャンたちの着物は、汗と血にまみれていました。また、私たちの心と言う衣は罪に汚れ、しみで一杯です。迫害のもとにある兄弟姉妹は「いつまでこの苦しみが続くのか」と嘆くでしょう。罪に汚れた心を持つ私たちは、自分が情けないほど罪に対して無力であることに、落胆します。

しかし、いつまでも、教会は苦しみの中に置かれるわけではありません。罪との戦いも永遠に続くわけではないのです。私たちのために十字架で罪の裁きを受け、死んでくださったイエス・キリスト。そのイエス様の犠牲の血によって、完全にきよめられた私たちの姿がここにある。そのことを今朝の礼拝で確認したいのです。

次に見てみたいのは、天国での生活です。

 

7:15a「だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。」

 

天国は怠け者の楽園ではありませんでした。イエス様の贖いの愛で満たされた心、充実した心で、一人一人が尊い働きをなす、奉仕の世界だったのです。旧約聖書の昔は、祭祀が聖所で神様に仕えました。それが、天国では世界全体が聖所と化し、全員が神様に仕える祭祀となるのです。

畑を耕すこと、着物や靴を造ること、料理をすること、掃除をすること、聖書を詠むこと、祈ること、絵を描くこと、スポーツを楽しむこと、礼拝すること。全ての働きが尊くて、奉仕に貴賎なしの世界です。自分はこれができるからと威張る者なく、何もできないと卑下する者もいない。皆がお互いの働きを尊び、皆が与えられた賜物を活かして、神様と人に仕えることに無上の喜びを感じる国。それが天国でした。

他方、神様も民のために働かれます。

 

7:15b,16「そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。」

 

 荒野を行く旅人にとって、幕屋は心安らぐ住まいでした。昼は暑さを避ける陰、あらしと雨を防ぐ隠れ家となります。天国では、神様が大きな翼をもって覆うかのように、幕屋を張って、民を守り慈しんでくださる。民が一人として飢えることなく、渇くことなく、炎熱に苦しむこともない様に。誰もが安心で、快適な環境で生活できる様に。そのために幕屋を張って共に住み、守ってくださると言う。頼もしくも優しいお父さんの様な神様と、私たちの親密な生活が目に浮かんできます。

 そして、何故天国が私たちにとって快適で、安心できる住まいなのかと言えば、それは、私たちのために十字架で命を捨てたもう小羊のイエス様がおられるから、私たちの苦労をよく知っておられる神様が待っておられるから、でした。

 

 7:17「なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」

 

 今この世界で、1分間で12人の命が飢餓のために失われています。愛に飢える人、慰めを求めて渇く心の持ち主はさらに多いでしょう。また、炎熱に代表される、災害に苦しめられる人も後を絶ちません。しかし、天国では、小羊イエス様が、私たちの羊飼いとなっていのちの水で養ってくださる。神様は、まるでお母さんが子どもにするように、「よく頑張ったね。待っていたよ。」と私たちの目の涙を拭い取ってくださると言うのです。

 迫害に苦しむ涙、罪を悔いる涙、自分を責める涙、悔し涙、別れの涙、挫折の涙。心の中で流す涙。私たちは、神様から拭って貰う度に、地上で私たちが経験した労苦をことごとく、神様が知っておられることに驚くことになるでしょう。神様が、私たちの人生のすべてを見守っておられたことを知り、安心してその胸によりかかることが出来るのです。

 これから、私たちは聖餐式にあずかります。聖餐式には、三つの意味があり、益があります。第一は、復活の主イエス様のいのちに預かること。第二は、イエス様をかしらとする一つの体、一つの家族であることを覚え、愛し合い、仕えあう決意をすること。第三は、来るべき天国での生活を思い、希望を新たにすることです。今朝の聖餐式が、私たちのうちに生きて働きたもう復活のイエス様を確認すること、天国で受け取る様々な祝福を前もって味わう機会であること。これを心に刻んで、聖餐式に臨みたいと思います。

2018年3月25日日曜日

マタイの福音書27章33章~54章「キリストの受難~この方は神の子~」


今朝の礼拝は受難週の礼拝です。受難週とは、イエス・キリストが都エルサレムに入場した日から復活前日まで,即ち日曜日から土曜日までの一週間を指すことばです。この期間、キリスト教会は、イエス様の生涯最後の一週間の出来事を聖書で読み、思いめぐらし、その意味を考える時としてきました。私たちクリスチャンは、いつもイエス様のことを考えるべき者。しかし、このように時を定めてイエス様がお受けになった苦しみ、受難について思い巡らすことを、教会は大切にしてきたのです。

先週の礼拝では十字架前夜、最後の晩餐の後、イエス様が弟子たちと向かったゲッセマネの園での出来事を見ました。そこで、イエス様は「十字架の苦しみをさけさせてほしい」と願い祈りをささげたものの、ついには十字架で死ぬことが神様のみこころ、我が使命であることを確認し、その身をローマの兵士に捕えさせたのです。

その後、ユダヤ教の裁判で神を冒涜する者として罪に定められたイエス様は、死刑の宣告を受けました。しかし、当時死刑執行の権限のなかったユダヤの指導者は一計を案じ、総督ピラトの官邸に向かうや、イエス様を十字架刑に処するよう求めたのです。ピラトはイエス様に罪を認めなかったものの、ユダヤ人の歓心を買おうと有罪を確定。ついに、イエス様は

刑場へと歩みだしたのです。イエス様がどくろの丘と呼ばれた場所にたどり着いたのは、金曜日の午前9時ごろでした。この時イエス様が歩まれた道はビア・ドロローサ、悲しみの道と言われ、今も巡礼や観光客が途絶えることがありません。

 

27:33~37「ゴルゴタという所(「どくろ」と言われている場所)に来てから、彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。こうして、イエスを十字架につけてから、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、そこにすわって、イエスの見張りをした。また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。」

 

 どくろの丘についてからも、人々はイエス様を苦しめ、辱めることをやめようとはしませんでした。この時イエス様に差し出されたぶどう酒は、体の痛みを和らげるための薬で、当時エルサレムの婦人が囚人をあわれみ、これを与える習慣があったと言われます。しかし、イエス様は一口舐めただけで、飲もうとはされませんでした。これから受ける苦しみのすべてを受けとめようという覚悟の現れでした。

 刑の執行を見張る兵士には、当時囚人の着物が役得として与えられたと言われます。そうだとしても、苦しむ囚人の傍で、くじ引きして着物を分け合うとは、何と酷な仕打ちかと思われます。また、頭上に掲げられた「ユダヤ人の王」と言う罪状書きも、イエス様をからかい、辱めるためのものであったでしょう。さらに、人々が声を上げ、罵り始めたのです。

 

27:38~44「そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。 彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。」

 

道を行く人々は「もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りてこい」と叫ぶ。普段は仲の悪い祭司と律法学者、長老たちも「他人を救ったイスラエルの王なら、十字架から降りてもらおうか。…わたしは神の子だと言っていたのだから、神が助けてくれるだろう」と、一緒になって声を上げる。イエス様の右と左に十字架にはりつけにされた強盗も、同じことばで罵る。

言うことは皆同じでした。男も女も、若者も壮年も、ユダヤ人も外国人も、エリートの宗教家も、処刑寸前の犯罪人も、皆等しく十字架に躓いたのです。「十字架につけられるような者は救い主ではない。イスラエルの王でもない。神の子であるはずがない。」皆がそう考え、十字架のイエス・キリストを嘲り、拒んだのです。

しかし、実際のところ、イエス様は十字架から降りてこられないのではありませんでした。自らの意志で十字架から降りなかったのです。十字架の上での苦しみを、すべて余すところなく受けとめるため、そこに留まっておられたのです。ある時、イエス様はこのように言われました。

 

ヨハネ10:18「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

 

「わたしが自分からいのちを捨てる。わたしには、それを捨てる権威がある。」十字架につけられたイエス様は、決して人々が思ったように無力でもなければ、惨めでもなかった。むしろ、自ら十字架にとどまることを選び、ご自分の使命を果たそうとしておられたのです。

そして、イエス様が果たそうとしておられた使命が何であったのか。それを、マタイの福音書は、全地を覆う暗闇とイエス様の語ることばで示していました。

 

27:45,46「さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」

この時刑場を覆った暗闇のことは、歴史の記録にも残されているそうです。きっと、多くの人が恐ろしく感じ、記録したのでしょう。この暗闇は日食などの自然現象ではなく、神様のわざでした。聖書において、暗闇は神様の裁きの現れです。代表的な出来事としては、旧約聖書の昔、イスラエルの民を解放しようとしないエジプトの王を裁いた時、神様はエジプト全土を暗闇で覆い、人々は恐れに捕われたとあります。

この時も、暗闇が来ると、それまでイエス様を罵っていた人々も、口を噤みました。先程までの喧騒は嘘のよう。ゴルゴダの丘は静まり返ったのです。そこに、イエス様の大声が響きました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

罪のないイエス様が、人類の罪を負い、神様から裁かれたのです。神の子イエスが、罪人の代わりに、神様から見捨てられたのです。

神様から罪人として裁かれる。愛する神様から見捨てられる。それは、肉体の痛み以上の痛みでした。それが、イエス様にとってどれ程の痛み、苦しみであったか。想像もできません。敢えて例えるなら、信頼する親から無視され、捨てられた子どもの気持ち。愛する夫、あるいは妻から置き去りにされた人の気持ちでしょうか。

神様に愛される者から、神様の怒りの的となる痛み。神様に守られている状態から、神様から見捨てられる状態に落ちた苦しみ。ゲッセマネの園で、イエス様が受けたくないと心底願った杯とは、この痛み、この苦しみでした。

エリ、エリ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。さすがに、地上を覆う暗闇とこの叫びを聞いて、恐ろしさを感じたのでしょうか。預言者エリヤがイエス様を助けにやってくると考える人々が動き始めました。

 

27:47~50「すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる」と言った。また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。ほかの者たちは、「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう」と言った。そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。」

 

エリヤと言うのは、世の終わりにイスラエルの人々を助けにやってくると期待されていた、旧約聖書の時代の預言者です。この時人々は、そのエリヤが生き返り、イエス様を死の苦しみから救い出すかもしれないと、考えたらしいのです。彼らが酸いぶどう酒を差し出したのは、イエス様に同情したからではありません。本当にエリヤが生き返るのか、助けに来るのか。この目で見てみたい。そのために少しでも、イエスの命を引き延ばしておこうという好奇心からの行いと考えられます。

この期に及んでも、人々はイエス様のことを理解していませんでした。自分たちが、死後神様から受けるべき裁きをイエス様が受けておられること。自分たちの罪のために、イエス様が十字架にとどまり、尊い命を犠牲にしようとしておられること。彼らは、イエス様の言葉を耳にしながら、その意味を考えようとさえしていなかったのです。

それでは、イエス様が神様の御心に従ったことには、何の意味もなかったのでしょうか。イエス様が私たち罪人を愛するがゆえに選ばれた、十字架の死は、この世界と私たちに何の影響も与えることはなかったのでしょうか。そうでは、ありませんでした。マタイの福音書は、三つの出来事を通して、イエス様の死がこの世界と私たちの人生を変えたことを伝えているのです。

 

27:51~54「すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。

そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都に入って多くの人に現れた。百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった」と言った。」

 

 第一の出来事は、神殿の幕が真っ二つに裂けたことです。これは、神様と私たちの関係が変わったことのしるしでした。

その頃エルサレムの神殿には、祭祀が仕事をする聖所と言う部屋と、その奥にあって、年に一度大祭司だけが入ることが許される至聖所と呼ばれる部屋の間に垂れ幕があり、二つを隔てていました。神様は旧約の昔、この至聖所から人々に語りました。垂れ幕は人が罪あるままでは神様に近づけないこと、罪の贖いが必要なことを教えていたのです。しかし、この時イエス様がすべての人の罪を贖うために十字架に死なれたので、神と人を隔てる幕は裂け、私たちは罪赦された者として自由に神様に近づき、神様と交わることができるようになったのです。

 第二の出来事は、神様を信じて死んだ人たち、聖徒の復活です。これは、イエス様が死に勝利されたので、死のない世界、イエス様を信じる者が永遠に神様の愛の中で生きられる世界が用意されたことを示すしるしでした。死者の復活については、来週のイースター礼拝でお話しします。

 第三の出来事は、イエス様を十字架につけた側の人々、ローマ人の百人隊長とその部下が、イエス様を神の子と信じたことです。これは、神様の恵みが、私たちの罪よりもはるかに深いことを示していました。道行く人も、宗教家も、犯罪人も、人と言う人のすべてが、十字架のイエス・キリストを神の子と信じることなく、拒みました。そのような中、神様はイエス・キリストを捕らえ、処刑した者にさえ、恵みを注がれたのです。

 最後に、今日の個所から、私たちが受け取るべきメッセージは何でしょうか。二つのことを確認したいと思います。一つ目は、自分と十字架のイエス様の関係について考えることです。ゴルゴダの丘にいた多くの人々は、自分の罪のために、自分に代わって、イエス様が見捨て神から裁かれ、捨てられたとは思っていませんでした。自分の罪の深さが、これほど恐るべき神の裁きに価するとは、想像もしなかったのです。しかし、私たちは十字架のイエス様を見上げる時、自分の罪とその深さを思い巡らしたいのです。十字架上で私たちのことを覚えて、裁きの痛み、苦しみを忍耐してくださったイエス・キリストこそ、我が救い主と告白したいと思うのです。

二つ目は、罪赦された者、イエス様の愛により心癒された者として、生きることです。

 

Ⅰペテロ2:24「そして(キリストは)自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

 

今日の個所で、私たちは、十字架刑を執行した百人隊長の信仰告白を通して、自分の救い難い罪が、イエス様によって完全に赦されてあることを確認しました。イエス様の十字架を見つめる時、私たちの心には罪赦された者、罪あるまま神に愛されている者としての平安が与えられます。

そうだとしたら、私たちの心には罪を離れ、義のために生きる思いがあるでしょうか。罪を悲しみ、神様の御心に従ってゆきたいという願いがあるでしょうか。その願いは、どれほど大きな願いでしょうか。イエス様が苦しみの中で、ご自分の願いよりも、神様の御心に従うことを選んだように、私たちも、神様の御心に従うことを第一とする歩み、進めてゆきたいと思うのです。

2018年3月18日日曜日

マタイの福音書26章36節~46節「キリストの受難~できますならば~」


キリストの復活を祝うイースターへ向けて、受難節を過ごしています。私たちを救うために主イエスが味わわれた苦しみ。その苦しみがどのようなもので、どのような意味があるのか。今日と次聖日の二回に渡って確認していきたいと思います。

 十字架にかかる直前、木曜日の夜。過越の祭のために賑わっていたエルサレムの二階座敷。イエス様は弟子たちと「過越の食事」を食されました。(本日の礼拝、交読文として皆で読んだ箇所です。)最後の「過越の食事」にして最初の聖餐式。イエス様ご自身、とても楽しみにされていた時間です(ルカ22章15節)。ここでイエス様は、パンをご自分の体、ぶどう酒の入った杯をご自分の血と言われました。この夜、その意味するところを弟子たちがどれだけ理解したのか分かりませんが、イエス様からすればご自分の死の意味を伝えていたのです。喜びと厳かさの入り混じる食事の時。

その食事の後、「賛美の歌を歌ってから、皆でオリーブ山へ出かけて」(マタイ26章30節)行きました。この時の賛美の歌とは、どのような歌なのか。(聖書に記されていなく、正確には分かりませんが)一般的に、過越の祭で歌われるのは詩篇113篇からの六篇、エジプト賛歌(出エジプトの出来事をモチーフとしているため、まさに過越の祭に相応しい詩篇と言えます)と呼ばれる歌です。

 当時の場面を想像するために、詩篇113篇の冒頭のみですが、確認したいと思います。

 詩篇113篇1節~4節

「ハレルヤ。主のしもべたちよ。ほめたたえよ。主の御名をほめたたえよ。今よりとこしえまで、主の御名はほめられよ。

 日の上る所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように。主はすべての国々の上に高くいまし、その栄光は天の上にある。」

 イエス様が、ご自身の死を告げる過越の食事。厳かさがあったと思いますが、しかし暗いわけではない。食事の後、「時間的にも、空間的にも、あらゆるところで主の御名をほめたたえよ。あらゆるところに、主の栄光は現れている。」と皆で賛美する。どちらかと言えば、意気揚々。明るさを感じます。

こうして、イエス様と弟子たちは、エルサレムから谷を挟んだ東にありますオリーブ山の一画へ行きました。オリーブの油絞り場という意味の、ゲツセマネの園。ここは、イエス様が好んだ場所で、弟子たちと何度も来られた所です(ヨハネ18章2節)。谷を挟んだ向かいの丘にエルサレムの街灯りが見え、おそらくゲツセマネの園は暗かったでしょう。食事と賛美の明るさから、園の暗闇と静けさへと移る。

ここで主イエスは捕えられることになります。これ以降、真夜中の裁判と、拷問を経て、翌朝には磔にされる。十字架へと急展開となるところ。いや、正確に言えば、捕えられるのではなく、自らを差し出しに行く。殺されるのではなく、自ら命を注ぎだしに行くのです。このゲツセマネの園でイエス様が祈られた祈り。「ゲツセマネの祈り」として知られる主イエスの祈りに今日は注目いたします。

 マタイ26章36節~39節

「それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。『わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。それから、ペテロとゼベダイの子のふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。そのとき、イエスは彼らに言われた。『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。』それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください。」

 イエス様は、弟子たちに対して、ご自分が約束の救い主であること。約束の救い主は、死に、復活することを繰り返し伝えていました。この過越の祭に来る時には、エルサレムにて、十字架にかかり死ぬことも明言されていました(マタイ20章17節~19節)。つい先ほど皆で食べた過越の食事、あの場で制定した聖餐も、ご自分の死を告げるものでした。

 自分が約束の救い主であること。約束の救い主の使命が、罪人の身代わりに死ぬこと。それがまさに実現しようとしている。これら、全てをご存知である方が、弟子たちと最後に過ごす時間。どのように過ごされたのかと言えば、祈ること。弟子たちとともに祈ることを願われた救い主。

 それでは、この時、何を祈られたでしょうか。なんと、「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」という願いだったのです。「罪人の身代わりとなること、十字架で死ぬこと。そのような目に会わないように。この苦難から逃れられるように。この杯を過ぎ去らせてください。」という願いだったのです。

 使命を果たそうと決意を表明する祈りではなく、むしろ使命から逃げたい、逃れさせて下さいという祈り。この後、散り散りになる弟子たちを執り成す祈りではなく、自分自身のための祈り。十字架直前、最後の最後の場面で、このような願いを祈られるイエス様の姿を、皆様はどのように受けとめるでしょうか。

 この時のイエス様の苦しみ方、恐れ方は大変なものがありました。「悲しみのあまり死ぬほど」と言われ、医者のルカは「汗が血のしずくのように地に落ちた」(ルカ22章44節)と記録しています。それまでの雰囲気とは打って変わって、非常に重苦しい場面。全知全能にして約束の救い主であるイエスが、何をそれ程恐れていたのか。

 また、その祈りも一度で終わらず、二度、三度と祈られたと言うのです。

 マタイ26章40節~46節

「それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。『あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。』イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。『わが父よ。どうしても飲まずに済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりになさって下さい。』イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことを繰り返して三度目の祈りをされた。それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。『まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」

 眠りこける弟子たちに囲まれながら、必死に祈るイエス。悲しみのあまり死にそうになり、血のような汗を流しながら、繰り返し、一つのことを願うイエス。罪人の身代わりとなること、十字架での死を過ぎ去らせてほしいという願い。

 このイエス様の祈りを前に、人は様々なことを言います。

 「イエスは既に死を覚悟していたのではないか。繰り返し、弟子たちに告げていたのではないか。敵の手に自らを渡すために、この園に来たのではないか。それが、ここに来て、出来れば避けたいと願う。このような姿さえなければ、イエスは完璧なのに。」とか、

 「聖書の中の殉教者も、歴史上の殉教者も、信仰の故に死を覚悟する者たちは、自分の死を受け入れていた。それが、ここに記されたイエスときたら、覚悟がないことの表れではないか。」とか、

 「あなたの御心の通りにと言いつつも、結局は自分の願いを繰り返し祈っている。このイエスの姿は、人間的過ぎる。このような救い主の姿が記録されているのは、いささか残念に思われる。」などなど。

 イエスに対する様々な受け止め方があるとして、それでは私たちは、このイエス様の祈りの姿を、どのように受けとめるでしょうか。

そこまで批判的ではないにしても、たしかにここに記されているイエス様の姿は不思議と言えます。自分の使命を理解し、弟子たちにも死を明言してこられた。何故、ここにきてこの苦悩の姿なのか。このゲツセマネの園における主イエスの苦悶の秘密は何だったでしょうか。

 

 この時、イエス様がなぜこれほどの苦悩を味わわれたのか。その全てを私たちが分かるとは思えませんが、いくつか覚えるべきことはあります。

重要な一つのことは、イエス様はそもそも死とは関係の無いお方だということです。主イエスは、神の一人子であり、死と関係の無いお方。そもそも、神の一人子が死ぬというのは、私たちの理解をはるかにこえた奇跡中の奇跡でした。つまり、主イエスが死ぬというのは、死ぬべきでない存在の方が、死ぬとういこと。本来、永遠にして不死なるお方が、これから死ぬ。この時イエス様は、神である方が死ぬという苦悩に直面されていたのです。

もう一つ重要なのは、イエス様は完全に聖なるお方であるということです。完全に聖いお方が、罪を背負う。全く罪と関係のないお方が、罪人として裁かれる、その苦しみ。罪人が神の怒りを受けて裁かれるのは当然のこと。妥当、文句なしです。しかし、罪なき方が、罪の罰を身代わりに受ける。それも、キリストは多くの人の罪を背負って死なれるわけで、最も罪深い者として裁かれるのです。この時イエス様は、罪なき者が、罪の裁きを負うという苦悩に直面されていたのです。

ゲツセマネの祈りに示されたイエス様の苦悩は、覚悟がないからでも、人間的なのでもない。むしろ神であるからこその苦悩。完全に聖い方であるからこその苦悩だったのです。死を前に、これ程の苦悩と、それを避けたいと願われるのは、神が死ぬということは重大なこと、その背負われる私たちの罪が大きいことが示されているのです。

 ところで、このゲツセマネの場面で、イエス様と同様に、あるいはイエス様以上に苦しんでおられる方がいることにお気付きでしょうか。

イエス様は、ここで「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と独り言を言われたのではありません。祈られたのです。それも三度も。この祈りに、父なる神様は、どのように応じたでしょうか。

聖書には何も記されていない。沈黙、無言です。一人子が、血の汗を流しながら、必死に願っている祈りに、沈黙を貫く父なる神。罪ある私たちですら、その子の願いは聞きたいと思います。それも必死の願い、懇願であれば、自分の出来る精一杯で応えたいと思うもの。そうだとすれば、完全に愛なる方が、御子の願いに沈黙されるというのは、どれ程の苦悩であったのか。この時の父なる神様の心は、一体どのようなものだったと言えば良いでしょうか。

父なる神は、最愛の御子たる神の祈りを聞き捨てられた。誰のためでしょうか。何のためでしょうか。他でもない。私たちのためです。私を救うために、主イエスの願いを退けられたのです。一体どれ程私たちは愛されているのか。

 この父なる神様の愛を、ヨハネは次のようにまとめました。

 ヨハネ3章16節 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」

 

 今日の箇所に合わせて言えば、「神は、実に、そのひとり子の願いを退ける程、私を愛された。」のです。

 パウロの言葉も思い出されます。

 ローマ5章8節

「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

 今日の箇所に合わせて言えば、「キリストの願いを退けることを通して、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにして下さった」のです。

 イエス様の苦しみを通して示される私たちに対する愛。父なる神様の苦しみを通して私たちに示される愛。その愛を、私たちはどれだけ真剣に受け止めてきたでしょうか。

 

 キリストの苦しみ、父なる神様の苦しみの意味を覚える受難節。私たちはこれまでどれだけ真剣に、キリストの味わわれた苦しみ、父なる神様の味わわれた苦しみに向き合ってきたでしょうか。あまりに簡単に、キリストの死を考えていなかったか。あまりに気軽に、キリストの苦難を論じていなかったか。私たちを救うために、主イエスと父なる神が苦しまれたのに、その苦しみをあまりに軽く考えていなかったか。

 パリサイ人シモンに対して、イエス様が語られた小さなたとえ話がありました。

 ルカ7章41節~43節

『ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。』シモンが、『よけいに赦してもらったほうだと思います。』と答えると、イエスは、『あなたの判断は当たっています。』と言われた。

 

 より多く赦された者が、より愛する者となった。話は簡単、当たり前のこと。しかしそうだとすれば、私たちはキリストの味わわれた苦しみ、父なる神が味わわれた苦しみが、どれ程のものであったのか、精一杯確認する必要があります。

 イエス様と父なる神様の苦しみを小さく見積もることは、結局、自分の罪を小さく見積もることにつながります。イエス様と父なる神様の苦しみを大したことではないと受け止めるということは、結局その愛も、大したことではないと受け止めることにつながります。

 私などには、どうせキリストの苦しみは分からないと嘯くことのないように。主イエスをして「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と願う程の苦しみを、私のために味わわれた。父なる神をして、御子なる神の願いを退けられた。その苦しみのゆえに、私たちは救われていることを、今日確認したいのです。

 

 以上、「ゲツセマネの祈り」の箇所でした。

一般的に、「ゲツセマネの祈り」からは、祈りについて様々なことが教えられると言われます。イエス様ですら、自分の使命から逃れることを願った。そうだとすれば、私たちもどのような願いも許されること。とはいえ、イエス様は自分の願いよりも、父の御心を優先させた。そうだとすれば、祈りとは、自分の願い通りに神様を動かすことではなく、神様の御心に自分を合わせること。「ゲツセマネの祈り」から、祈りについて、このようなことを受け取ることも良いこと、大事なこと。

しかし今日は特に、この祈りに込められたイエス様の苦しみ、この祈りを聞かれた父なる神様の苦しみに焦点を当てたいと思います。私たち一同で、真剣に、主イエスの苦悩、父なる神様の苦悩に目を向けたいと思います。主イエスがどれ程の苦しみを味わわれたのか。その背後に、父なる神様がどれ程苦しまれたのか。その苦しみに示された、私たちに対する愛の大きさを覚えたいと思います。

私たち皆で、「イエス様の苦しみ、父なる神様の苦しみがよく分かるように。その苦しみに示された私たちへの愛がよく分かるように。」と祈ること。キリストの受難の箇所を読むこと。信仰の仲間と分かち合うことに取り組むことが出来ますように。皆で、主イエスの、父なる神様の苦しみに焦点を合わせながら、キリストの復活を祝うイースターへと歩みを進めていきたいと思います。

2018年3月11日日曜日

ガラテヤ(2)「神は罪人を救う」ガラテヤ1:11~24


 東京に住んでいたころ、近くのスーパーがピーターラビットのキャンペーンをやりました。うちの子供がすごく喜んでいて、商品を買えばシールをもらって、いくつかのシールを集めればピーターのぬいぐるみのプレゼントがタダでもらえるというキャンペーンでした。私たちは毎日そのスーパーで買い物するので、すぐもらえそうでした。わくわくしていて、そのスーパーで買い物を続けました。しかし、シールをいっぱい集めたら、キャンペーンの報告をじっくりみると、シールを集めた上に2千円も払わないといけないことが分かりました。やっぱりタダのプレゼントではないのです。子供達も、私もがっかりしました。

 このような誤解が一世紀にガラテヤという地域での諸教会で起こりました。使徒パウロがその教会を生んだ時に、キリストを信じるだけで救いを受けるという福音を宣べ伝えましたが、パウロが去った後、ユダヤ教徒の偽教師がこの教会に忍び込んできて、クリスチャンになる前にユダヤ教徒になるべきだと教えました。彼らは、割礼を中心にしていたので、「割礼派」と呼ばれました。「割礼派」の彼らによると救いをもらうためにユダヤ教の律法に従わなければならないので、救いはただのプレゼントにならなくなってしまいました。

 今日の説教はガラテヤ人への手紙についての説教シリーズの第二回目となります。パウロは「割礼派」の偽教師の教えを修正するためにこの手紙を教会員に送りました。前回勉強した通り、パウロと彼らの教理はさっと見ると似ていそうに見えるのですけれども、本当は全く違う考え方なんです。パウロの教えは永遠の命への道なんですが、彼らの教えは神様の呪いへ導かれるそうです(1章9節)。この二つの考え方の違いは理解しないといけないでしょう。

 ガラテヤ人への手紙の大きなテーマの一つは「宗教」と「福音」の違いなんです。「宗教」は自身が従うゆえに神様に受け入れられていると考えます。その一方、「福音」によりますと、自身はキリストを通して神様に受け入れられているゆえに従うということです。現代の私たちも、救いをもらうために自分の行いに頼る誘惑に陥ることは危険なので、福音の素晴らしさをより深く理解すべきだと思います。

 単純に定義すれば、福音は「神は罪人を救う」という知らせです。今日の箇所を通して、パウロは福音の起源、福音の力、福音の目的という三つのポイントで、深く説明しています。福音は「神は罪人を救う」という知らせなので、自分自身の行いに頼らず、救い主イエス・キリストの働きのみに信頼すべきだということが分かると思います。


 まず、第一ポイントは福音の起源は神様です。ガラテヤの教会員の中にパウロの福音について不信感を募らせるため、パウロの福音はエルサレムの使徒達から来るものだ」と責める割礼派がいました。なので、今日の箇所は何かというと、この訴えに対してパウロの弁証だと言えます。最初に、パウロが宣べ伝えた福音の起源は人間ではなく、唯一の神様だということが強調されます。

 パウロがガラテヤ地方で開拓伝道する時、宣べ伝えた福音は11節によりますと、「人間によるものではありません」。その福音の内容の起源は他ならぬイエス・キリスト自身だと言っています。初めて受け入れたのは、パウロが自分から探したからではなく、イエス・キリストの啓示によって受けたそうです(12節)。これは、他の使徒とは違う、ユニークな経験なんです。ヨハネの福音書によると、イエス様は12弟子にこう言いました「あなたがたもあかしするのです。 初めからわたしといっしょにいたからです」(ヨハネ15:27)。一世紀の使徒たちのみなはパウロ以外、イエス様が十字架にかけられる前、3年間ぐらい一緒に生活して、訓練を受けました。直接イエス様の側で教えられたのです。なので、パウロは自分も使徒であることを語ると「最後に、 月足らずで生まれた者と同様な私にも、 現れてくださいました。」というのです(第一コリント15:8)。他の12使徒に比べると召しのタイミングは違いますが、パウロも使徒の一人でした。なぜかというと、イエス様が直接福音を伝えたからです。つまり、この福音の起源は神様・イエス様でなければならないのです。

 このメッセージが神様から来たかどうかがなぜ重要なのでしょうか。私たちの信仰は神様中心でなければ、私たちの行動は自己中心になってしまうからです。割礼派の教えは律法を完全に守っていけば救われるという制度で、行動は自己中心になってしまいます。これはどちらかというと「宗教」と言えると思います。人間が何かをすることで、人間は何かをもらえるというのが「宗教」です。神様と関係なし、人間起源なのです。私たちも、クリスチャンであるのに、同じふうに行動する誘惑があります。アメリカ人の牧師のティム・ケラーは一つの例をあげていますがそれは「嘘」です。「嘘をつけば、神から罰を受ける。または、「嘘をつけば、自分もあの常習的な嘘つき達と同じに見られる」という考え方があるでしょう。ここにはどんな動機が隠されているのでしょうか。この考え方の動機というのは、罰への恐れなんです。あるいは、プライドの危険もあります。プライドはこのように考えさせて、いやしい嘘つきになってしまう、そうなりたくはないでしょう。罰への恐れとプライドは本質的には自己中心なんです私たちの動機が罰かプライドであれば、嘘はつかないかもしれないんですが、それは神様を愛しているからではなく、自分を愛しているからです。

 しかし、福音は「神は罪人を救う」で、この起源は神様なので、私たちの行動の起源も神様でなければならないのです。つまり、パウロはこう勧めています「キリストの犠牲的な恵みをただで受けた。このことにえよう。福音があなたを心から誠実な人に変えるまで」。このようにして、私たちの動機は恐れとプライドではなくなります。この福音の起源をみて、すでに愛してくださっていることがわかって、神様の方に信頼するべきです。でも、この力はどこからくるでしょか。


 第二ポイントは福音の力も神様です。13節から14を見ますと、パウロはクリスチャンになる前の状態が分かります。信じられないほど激しい、暴力的なパリサイ人でした。厳しい律法主義のユダヤ教の宗派の一人でした。一世紀のクリスチャんたちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、一番悪名高い迫害者でした。パウロは「教会を荒らし、 家々に入って、 男も女も引きずり出し、 次々に牢に入れ」ました(使徒8:3)。キリスト教の初めての殉教者のステパノが殺された時に、パウロはいました。しかし、神様の召し、神様の力はパウロの罪より強いでしょう。お母さんがパウロを生む前からパウロが選び分かれ、異邦人の使徒として召されました。教会の迫害者は教会のために迫害される者になった。これより、もっと圧倒的な人生変化は想像できないでしょう。

 このように、パウロはなぜ自分の証をこの手紙で語るかというと、福音の力は神様のみだということを強調するためです。クリスチャンになる前、キリストの啓示を見る前に、パウロは自分の行動で、自分の力と働きで神様の前に立つことができると思いました。そして割礼派の教えによって、自分の力で、自分の善行で救われると言われたんですが、この手紙でパウロが記している福音によると人間の唯一の希望は神様の恵と力なんです。

 私たちの救いもこのようなものです。パウロのように私たちの罪も隠さなくても良いでしょう。恥ずかしくなくても良いでしょう。しかしながら「宗教」に、道徳に信頼すれば、自分の失敗、罪、欠けているところをどんな犠牲にしても隠そうとしないといけません。こういう生き方はものすごく疲れるでしょう。神様の救う力に信頼しないと、休むことができないからです。ケラー牧師によりますと、もし「道徳と宗教を通して神の前に正しくあろうとするなら、救われるために神を求めているのではありません。自分自身で救いを達成しようとする手段として、神様を利用しているのです。」

 自分の人生を振り返ってみれば、罪を隠さなくて、告白すると神様の栄光を捧げることができます。こうすれば、イエス様の恵の素晴らしさの証人になれるでしょう。私たちの周りに、まだクリスチャンではない方々が確かにいます。この愛する家族、友人、同僚、クラスメートの救いのために祈っていますでしょうか。どんなに絶望的にみえても、パウロの例をみるなら、私たちの祈り続ける生活はとても励まされるでしょう。神様の偉大な愛で救われない方は一人もいません。福音の力は神様で、「罪人のかしら」のパウロも救われるので、私たちも神様に信頼するべきです。


 続きまして、第三ポイントは福音の目的も神様です。前に言いました通り、パウロの敵「割礼派」はパウロの福音をダメに見せるため、パウロはエルサレムの使徒達に教えられたと訴えました。16節から22節までみると、この訴えに答えるためパウロは三つの証拠を上げています。クリスチャンになったら、アラビアへ、それから3年が経つとやっとエルサレムに行って、その後シリヤとキリキヤの地方に行きました。使徒の働き9章にこの旅について詳しく読めます。ここでパウロが言いたいのはその時に他の使徒と相談しませんでした。パウロの教理、パウロの福音は神様から直接もらったという証拠です。他の使徒のようにパウロはイエス様が蘇る前に3年間過ごせませんでしたが、結局キリストに直接出会って、クリスチャンになってから神様に3年間教えてもらったと考えられます。使徒の働き9章を読みますと、この経験でパウロの人生の目的は全く変わって、イエスは神の子であると宣べ伝えることに努力しました。

 エルサレムに行く時にも、ヤコブとペテロと一緒に15日間しか交わりませんで

した。もちろん、彼らはその時イエス様のことについて話したと思われますが、彼らに福音の内容を教えてもらったわけではないのです。これを、パウロは権威を確信をもって、言い切っています。

 ケパというのは使徒ペテロのヘブライ語(アラム語 )の名前なんです。この箇所でパウロはなぜ「ケパ」と呼ぶかというと、ペテロはユダヤ教徒のための使徒なのでヘブライ語の名前を使って、パウロ自身は異邦人のための使徒ということを強調をするためだと言われています。ローマ15章にパウロはこう言います「異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、 神から恵みをいただいているからです」。この出来事の結果としてはその地方のクリスチャンはパウロの話を聞いて「神があがめていました」(24節)。

 ここでパウロは旧約聖書のイザヤ書49章に触れています。自分自身の召しと働きがこの予言の成就の一つだという意味です。イザヤ書49章1節、6節はこう言います、「【主】は、 生まれる前から私を召し、 母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。わたしはあなたを諸国の民の光とし、 地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」これを読んで、パウロの宣教の大切さがわかると思います。 ガラテヤ人も、アメリカ人も、日本人も、ほぼ異邦人なので、パウロの召しは私たちの救いの歴史上重要な出来事でした。パウロの召しは異邦人の国々に伝道する大事な段階でした。これは何のためでしょう。この福音の目的は世界中の人々に神様があがめられるためだとパウロが記しています。

 福音の目的は自分の栄光のためではなく、神様の栄光のためだということをわかったら、私たちもパウロのように、私たちの人生の目的も変わります。割礼派の「宗教」においては、人間の動機は恐れと不安を土台としていますそうしたら自分は正しいということを示そうと頑張らないといけません。しかし、「福音」にある動機は、あふれるほどの喜びを土台としているので、自然にみ言葉に従いたくなります。救いは自然に奉仕に導かれます。このようにして、神様はずっと前から私たちの救いのための素晴らしい計画があったので、神様に信頼するべきでしょう。


 まとめてとして、別のキャンペーンの話を語りたいと思います。高校の頃、私はバンドという趣味があって、遊びとして友達と一緒に楽器屋さんへよく行ってみたのでした。高級な楽器を買うお金はなかったんですが、見るだけで楽しかったです。ある日、一つの楽器屋さんでギブソンのギターをもらえるキャンペーンが開催して、自分の名前を紙に書いて、その紙をバケツに入れて、月の最後の日にマスターはその紙を一枚とって、それでその人がただでギターをもらえるというキャンペーンでした。バケツに入れるのは無料だったので、名前を書いて入れました。別に当選すると全然思わなかったのですね。

 数週間後、そのマスターから電話が来て、私の名前が選ばれたという連絡でした。。翌日、その店に行って、1ドルも払わなくてその高級なギターが手に入りました。かくして、東京のスーパーのキャンペーンと全然違うでしょう。自分は何も払わなくても、何もしなくてもプレゼントがもらいました。その店のマスターは全ての代価を払ってくださいました。「福音」というのはこのようなことです。神様の前に私たちすべての人が罪を犯したので、裁きという報酬を得ました。しかし、神様は一人子イエス・キリストを与えになって、私たちの代りに報酬を払ってくださいました。

 ですので、福音は「神は罪人を救う」。 福音はもうちょっと説明してみますと、「私達がする何かではなく、私達のためにすでになされたこと、私達が応答しなければならない出来事であります。」福音の起源も、福音の力も、福音の目的も神様なので、私たちは自分の行いに信頼するのをやめましょう。信仰によって、神様の出来事に応答することです。この手紙の後の方で、パウロは「お願いです。 兄弟たち。 私のようになってください。」と語ります。この人生の中で受けた全ての恵みはイエス様が起源です。イエス様の愛はこの人生を変える力です。全ての働きはイエス様があがめられるためだから、パウロのように私たちも神様に信頼しましょう。

2018年3月4日日曜日

コリント人への手紙第一1章21節~31節「コリント人への手紙第一(3)~主を誇る者~」


皆様は、三本の矢の教えをご存知でしょうか。戦国の武将毛利元就が残した遺訓として有名で、一本では折れてしまう矢も、三本束ねれば簡単には折れないとして、三人の子どもたちに固く結束して事に当たるよう勧めたと言われるものです。

三人寄れば文殊の知恵ということばもあります。一人一人は知恵足らずでも、三人が心を合わせて考えれば、良い知恵も浮かんでくる。協力すること、一致することの大切さを説いています。

他方、兄弟は他人の始まりとも言われます。本来仲が良いはずの兄弟同士。しかし、お互いに独立し利害関係が生まれると、他人のように争うようになることを指します。また、船頭多くして船山に登るということばもあるでしょう。皆が「俺が、俺が」と船頭気取りで自己主張し、対立しているうちに、とんでもない所に船が進んでしまう。喧嘩、対立がいかに不幸で不毛なものかを、肝に銘じさせることばでした。

それでは、今私たちが読み進めているコリント人への手紙、使徒パウロが書き送ったこの手紙の宛先であるコリント教会は、果たして三本の矢のような教会だったのでしょうか。三人寄れば文殊の知恵、お互いに協力して物事に当たる教会だったのでしょうか。

そうではなかったようです。6年前ヨーロッパへの宣教旅行の途中、心身ともに弱り果てていたパウロが労苦を重ねて建て上げたコリント教会は、同じ神を信じる兄弟同士が争い、仲間割れしていました。アポロ派、ケパ派、パウロ派、キリスト派と4つのグループが、各々思うように教会を動かそうと、まるで4人の船頭が別々の方向に進もうとする船のよう。パウロをして、「あなたがたは、キリストの体である教会を四つに引き裂くつもりですか」と悲鳴を上げさせる程、酷い有様を呈していました。

地の塩、世の光として、コリントの町に良い影響をもたらすべき教会が、却って軽薄で、わがままで、不道徳なコリントの町の風潮に染まっていたらしいのです。

懐かしいコリント教会を去って早や4年。この時、パウロはコリント対岸の町エペソに滞在していました。しかし、エペソの町で伝道に励む使徒の耳に届くのは、仲間割れ、性的不道徳、裕福な者が貧しい者を辱める交わり、礼拝の混乱など、胸を痛める問題ばかりだったのです。

そんな、あるべき教会の姿から落ちてしまったコリント教会のために、この教会の生みの親であるパウロが、筆を執ったのがコリント人への手紙でした。そして、まず取り上げられたのが仲間割れの問題です。仲間割れしないように、一致するように。この勧め、このテーマは、4章の終わりまで続きます。

仲間割れの原因は、コリント教会の人々が自分を誇ること、特に知恵をもって誇ることにあると見抜いたパウロは、「神はこの世の知恵を愚かなものにされた」と語り、人間の知恵の限界を指摘しました。今日はその続きとなります。

 

1:21~23「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、」

 

たとえ、聖書の神を信じない人間であっても、理性とか知識と言った煉瓦を積み重ねてゆけば、神を知り、神に到達することができる。そんなこの世の考え方を、神様は打ち砕いた。そして、宣教のことばの愚かさ、十字架につけられたイエス・キリストを信じる人を救うことを良しとされた。そう、パウロは言うのです。

宗教について学び、知識を積み重ねてゆけば、神を知り、神のようになれる。そう思いあがる人間には、ご自分のことを隠す神様。しかし、自分の罪、限界を認めて、十字架のイエス・キリストを信じる者には救いの恵みを与えるのが、神様だと語るのです。

しかし、その様な神様の思いに、人間たちは気がつくことはありませんでした。しるし、奇跡を求めるユダヤ人にとって、十字架につけられたキリストは躓きでした。知恵を好むギリシャ人にとっては愚かなことでした。長年の活動を通して、十字架のキリストを述べた伝えた時の人々の反応から、パウロは人間の高慢さに、二つのタイプがあることを感じていたようです。ユダヤ人タイプとギリシャ人タイプの二種類でした。

福音書を読みますと、ユダヤ人たちは、イエス様に対し、様々な場面で神としてのしるし、奇跡を執拗に求めています。自分たちが期待するような奇跡が行われるとイエス様に従う。期待に反すると、人々は離れてゆく。その繰り返しでした。

論より証拠、ことばより奇跡。そんなユダヤ人が、十字架につけられたイエス様を見て「こんな惨めな男が救い主のはずはない」と失望。イエス様を罵り、辱めたのは、当然のことだったと思われます。何故なら、木につけられたまま処刑される者は、最低最悪の罪人。神に呪われた者と考えらえていたからです。十字架のキリストは、力強い王様のような救い主を望むユダヤ人にとって、躓き以外の何物でもなかったのです。

証拠より論、他方、知恵を好むギリシャ人は、死ぬはずのない神が死んだとか、最も忌まわしい刑罰として、口にするのも憚られる十字架で死んだ人間を、救い主と信じる等という宗教はナンセンス、愚かの極みとして受け止めていたらしいのです。

美しい表現、事実よりことば。人の心を動かす雄弁や機知に富む会話を好むギリシャ人にとって、十字架の上で肉を裂き、血を流して死んでいったキリストの姿は余りにも残酷で生々しくて、耳にしたくも、口にしたくもない話題だったと言うことでしょう。

しかし、救いに召された私たちにとっては躓きでもなければ、愚かなことでもない。十字架のキリストこそ、神の力、神の知恵ではないのですか。パウロは呼びかけるのです。

 

1:24,25「しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」

 

ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、日本人であっても、何人であっても、世界中の人間にとって、イエス様以外に真に人を生かす力もなく、知恵もない。パウロはユダヤ教の律法学者、エリートでした。ギリシャの教養も身に着けていた知識人でした。人間として力も知恵もあったパウロが鼻っ柱を砕かれ、イエス様の恵みを身をもって経験したことばだけに、説得力があります。

信じる者を賢くし、聖くし、正しくする力。罪を除く力。救いを確保する力。イエス様の以外の誰に、このような力があるでしょうか。義を教える知恵、愛を説く知恵。イエス様以上の知恵を持つ人が他にいるでしょうか。私たちも、このパウロのことばに心から共感し、改めてイエス様を信じる者の幸いを確認したいところです。

こうして、イエス様を信じる者の幸いを確認したパウロは、コリント教会の人々に顔を向けると、「あなた方も同じ恵みを受けたのではありませんか」と問いかけたのです。

 

1:26~29「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」

 

当時、ギリシャの教会には、会堂管理者クリスポという名のある人物がいました。裁判官デオヌシオとかギリシャの貴婦人たちと言う地位や身分の高い者もいました。しかし、多くのメンバーは無名の市民、職人、奴隷、自由の身となった元奴隷だったと言われます。

ここで、知者をはずかしめるため、強き者をはずかしめるため、財産や地位のある者を無い者のようにするためとされた時、この世にあって尊ばれる知恵や力、財産や地位には、一体何の意味があるのかと、考えさせられます。それらは罪からの救いへと私たちを導くことができないものです。私たちの心を幸いで満たすこともできないし、正しい歩みへと導く力も持っていません。

神様は、それらのものを持っているからという理由で、私たちを救われたのではありません。ただ、恵みによって救われたのです。それなのに、人間は自分の知恵や力、財産や地位を誇って、神がいなくても大丈夫と驕り高ぶっている。その驕り、その高慢を戒めるために、神様はあなたたちの様な愚かな者、弱い者、取りに足りない者を救われたのです。パウロは念を押しています。

「神の御前でだれをも誇らせないため」と聞いて、思い出すのはアイザック・ニュートンのことです。近代科学の父と言われるニュートンは、世界は神様によって創造されたこと、神様のみ手によって動かされ、守られていることを信じていました。

「私はすべすべした小石や小さな貝殻のような真理を見つけては、子供のように夢中になってきた。けれど、私の目の前には依然として神の真理と言う大きな海が発見されずに横たわっている。」晩年のことばです。真の知者は神様の前で誇らない。神様の真理を知りえたことを感謝しながら、自分が発見したことは、神様の真理のほんの一部に過ぎないとへりくだる。私たちもこうありたいと願う生き方がここにあると思います。

さて、とは言えです。神様の前では何も誇るべきものを持たない人間、罪の塊のような人間も、「キリストのうちにある」ことによって、驚くべき祝福に包まれるのです。

 

1:30,31「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書いてあるとおりになるためです。」

「神によってキリスト・イエスのうちにある」とある通り、コリント教会の人々は、神様によってイエス・キリストと一体とされました。イエス様を信じた時、私たちはイエス様と一つ、一体とされた。パウロが繰り返し語る、大切な教えです。

イエス様と一体とされた私たちは、イエス様から神の知恵を教えてもらえます。イエス様の義を頂いて、義、罪のない者と認められました。イエス様によって、愛、喜び、平安、寛容、親切、誠実など、徐々に新しい、きよい生き方ができるようになりました。最後には、この地上の体も、イエス様によって完全な体に変えられて復活します。これが贖いです。

神の知恵、義、聖め、贖い。イエス様は、私たちが神様から受け取るべき祝福のすべてを、私たちに与えてくださるのです。それらを私たちの生涯にわたって、日々与え続けてくださるのです。ですから、コリント教会の人々に対して、パウロは「誇る者は主を誇れ」と命じました。これは、旧約エレミヤ書のことばからの引用です。今日の聖句です。

 

エレミヤ9:23,24「【主】はこう仰せられる。「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは【主】であって、地に恵みと公義と正義を行う者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。──【主】の御告げ──」

 

コリント教会の仲間割れの原因は、自分の知恵、能力、富を誇るところにあると考えていたのでしょう。それらを誇らず、それらの賜物を与えてくださった主を誇れと、パウロは彼らに勧めたのです。

彼らは自分の知恵をもって人を責め、能力を誇って人を裁き、富をもって貧しき人をはずかしめていました。神様が与えてくださった賜物を悪用して、自らを誇り、人の上に立とうとする。互いに亜争い、対立する。まるで神様を知らない人のような生き方をしていたのです。その様な人々に、パウロは主を誇れと命じました。

それでは、主を誇るとはどういうことでしょうか。ひとつは、知恵や能力、富などを、イエス様が十字架の苦しみを通して与えてくださった賜物と考えること、受け取ることです。本当なら、受け取る資格のない者が贈り物を受けたわけですから、心から感謝して受け取ることです。

二つ目は、与えられた賜物を、イエス様がそうされたように、自分を喜ばせるためではなく人を喜ばせるため、自分を誇るためではなく人に仕えるために用いることです。教会を建て上げるため、この社会を良くするために活用することなのです。

果たして、私たちは、イエス様が尊い血潮をもって贖い、与えてくださった賜物を、どう用いてきたでしょうか。イエス様がどれほどの犠牲を払って、その賜物を与えてくださったか、考えてきたでしょうか。今自分はどんな賜物を与えられているのか。それを誰のために、何のために、どう用いることが、イエス様の思いにこたえることになるのか。私たち皆で、主を誇る者としての歩み進めてゆきたいと思います。